認知症1000万人時代に経産省が本腰。「当事者が開発者」という逆転の発想とは？

なぜ今、経済産業省が動くのか？ 驚きの「逆転の発想」

「医療・介護の問題」という常識の限界

これまで認知症対策は、主に厚生労働省が中心となり、医療や介護の観点から進められてきました。しかし、認知症の人は増え続け、2025年には約700万人、それに伴う社会的コストは24.3兆円に達するという試算もあります。もはや、この問題は医療・介護分野だけで抱えきれる規模ではありません。そこで白羽の矢が立ったのが経済産業省です。彼らはこの巨大な社会課題を、単なる「コスト」や「負担」としてではなく、「新たな価値を創造する機会」、つまり新しい市場やビジネスチャンスとして捉え直したのです。この視点の転換こそが、今回のプロジェクトの出発点です。

オレンジイノベーション・プロジェクトの全貌

経済産業省が打ち出した新戦略、それが「オレンジイノベーション・プロジェクト」です。このプロジェクトの目的は、認知症の人が直面する困難や課題を起点に、新しい製品やサービスを生み出すイノベーションを促進すること。そして、それを通じて認知症の人が尊厳を保ち、活躍できるインクルーシブな社会を実現することを目指しています。これは、認知症を「守るべき対象」から「社会を豊かにするパートナー」へと位置づける、まさにコペルニクス的な発想の転換と言えるでしょう。

核心は「当事者が開発者になる」こと

このプロジェクトの最もユニークで重要な点が、「当事者参画型開発」です。従来、製品開発は企業が「認知症の人はこうだろう」と想像して作るのが一般的でした。しかし、それでは本当に必要な機能や、当事者が感じる微妙な使いにくさまでは分かりません。そこで、開発の初期段階から認知症当事者本人にチームの一員として参加してもらうのです。彼らはもはや単なる「意見を聞く対象」ではありません。アイデアを出し、試作品を評価し、改善点を指摘する、正真正銘の「開発者」なのです。

では、この「当事者が開発者になる」というアプローチは、具体的に社会にどのような変化をもたらすのでしょうか？

「課題」が「価値」に変わる？ 当事者参画がもたらす3つの変化

変化①：本当に使える製品・サービスが生まれる

当事者が開発に加わることで、机上の空論ではない、リアルなニーズに基づいた製品が生まれます。例えば、薬の飲み忘れを防ぐアプリを開発する際、開発者だけでは「時間になったらアラームが鳴ればいい」と考えがちです。しかし当事者からは「アラームが鳴っても、何の薬か分からなくなる」「家族が飲んだか確認できる機能が欲しい」といった、経験者ならではの切実な意見が出てきます。こうした声を反映することで、本当に役立つ製品が完成します。さらに、当事者の視点で改善された製品は、高齢者や子どもなど、他の多くの人にとっても使いやすいユニバーサルデザインにつながる可能性を秘めています。

変化②：企業に新たなビジネスチャンスが生まれる

1000万人という巨大な市場は、企業にとって大きなビジネスチャンスです。当事者参画型開発は、この市場を攻略する鍵となります。当事者のインサイト（深い洞察）を活かした製品は、他社との明確な差別化要因となり、市場競争力を高めます。また、このプロジェクトは、これまで認知症とは無関係だと思われていたIT、金融、住宅、食品といった多様な業界の参入を促します。例えば、金融機関が当事者と一緒に資産管理ツールを開発したり、住宅メーカーが安心して暮らせるスマートホームを共創したりと、新たなコ・クリエーション（共創）の可能性が無限に広がっているのです。

変化③：当事者の尊厳と社会参加が実現する

このアプローチがもたらす最も大きな価値は、認知症当事者の生き方そのものを変える可能性です。ある調査では、認知症当事者の約7割が「社会の役に立ちたい」と回答しています。開発に参加し、自分の経験や知識が誰かの役に立つことは、彼らにとって大きな喜びと生きがいになります。認知症と診断されると、多くの人が自信を失い、社会とのつながりを断ってしまいがちです。しかし、開発者として活躍する場を得ることで、彼らは「支えられる存在」から「社会を支える存在」へと変わります。これは、彼らの尊厳を回復し、社会参加を促す上で非常に重要な一歩です。

しかし、この画期的に見えるプロジェクトにも、乗り越えるべき壁が存在します。

立ちはだかる壁は何か？ プロジェクト成功への3つの鍵

鍵①：企業の「思い込み」をどう変えるか

最大の障壁は、企業側に根強く残る「認知症の人には何もできない」という無意識の偏見や思い込みです。当事者との協働に慣れていない企業にとって、彼らの体調や症状に配慮しながらプロジェクトを進めることは、簡単ではありません。会議の時間を短くしたり、視覚的に分かりやすい資料を用意したりといった工夫が不可欠です。経済産業省は、企業と当事者をつなぐコーディネーターの育成や、成功事例の共有を進めていますが、最終的には各企業の経営層が、これを単なるCSR（企業の社会的責任）ではなく、事業戦略の核として本気で取り組む覚悟が求められます。

鍵②：プライバシー保護とデータ活用の両立

当事者のリアルな生活データや経験は、製品開発における宝の山です。しかし、それは同時に極めて個人的で繊細な情報でもあります。これらの情報をどのように安全に収集し、プライバシーを守りながら開発に活かすか、という課題があります。特に、BPSD（行動・心理症状）に関するデータなどは、取り扱いに細心の注意が必要です。個人情報保護法などの法規制を遵守しつつ、当事者が安心して情報を提供できる信頼関係の構築と、安全なデータ活用基盤の整備が、社会実装に向けた重要な鍵となります。

鍵③：社会全体の理解と協力体制の構築

このプロジェクトが真に成功するためには、一部の先進的な企業や自治体だけの取り組みでは不十分です。認知症の人が当たり前に開発会議に参加し、地域のお店で製品テストに協力する。そんな光景が日常になるためには、社会全体の理解が欠かせません。学校教育の場で認知症について正しく学ぶ機会を増やしたり、メディアが当事者の活躍を積極的に報じたりすることで、少しずつ社会の意識を変えていく必要があります。企業、行政、医療機関、そして市民一人ひとりがステークホルダーとして連携するエコシステムを構築できるかどうかが問われています。

これからどうなる？ 認知症と共に生きる未来のカタチ

認知症1000万人時代は、もはや避けることのできない日本の未来です。経済産業省の「オレンジイノベーション・プロジェクト」は、この巨大な課題を「価値」に変えようとする野心的な挑戦です。鍵を握るのは、認知症当事者を「課題を持つ人」から「課題解決のパートナー」へと見る視点の転換です。もちろん、企業の意識改革やプライバシー保護など、乗り越えるべき壁は少なくありません。しかし、この挑戦が成功すれば、そこには誰もが尊厳を持って自分らしく生きられる、よりインクルーシブな社会が待っているはずです。この大きな変化の主役は、果たして誰なのでしょうか。その答えは、私たち一人ひとりの意識の中にあるのかもしれません。