なぜツシマヤマネコは「引っ越し」する？絶滅回避へ、4園連携の国家プロジェクト

なぜ今、救出作戦が必要なのか？残された時間はわずか

「絶滅危惧IA類」が意味する深刻な現実

ツシマヤマネコは、その名の通り長崎県の対馬にしか生息しない、非常に貴重な野生動物です。しかし、その未来は今、風前の灯火となっています。絶滅危惧IA類――これは、日本の野生動物の中で最も絶滅の危機に瀕しているランクを意味します。かつては対馬の森を自由に駆け巡っていた彼らですが、現在の野生での生息数は、わずか100頭程度と推定されており、まさに崖っぷちに立たされているのです。このままでは、日本の自然から永遠に姿を消してしまうかもしれません。

交通事故、伝染病…ヤマネコに迫る複数の危機

なぜここまで追い詰められてしまったのでしょうか。原因は一つではありません。道路開発による生息地の分断や、それに伴う交通事故の増加が深刻な問題です。また、島のイエネコから感染する可能性のある猫免疫不全ウイルス感染症（FIV）などの伝染病も大きな脅威となっています。限られた島という環境の中で、これらの危機が複合的に彼らを襲い、個体数を急速に減少させてきました。もはや自然の回復力だけに頼ることはできず、人間が積極的に介入しなければ、種の存続は不可能という段階に来ているのです。

この絶望的な状況を打破するため、ついに国を挙げた一大プロジェクトが動き出しました。それが、動物園や関係機関が連携する「保護増殖事業」です。

4園連携の『引っ越し大作戦』その全貌とは？

環境省が描く、前例のない繁殖計画

事態が大きく動いたのは、2025年11月20日。環境省が「令和7-8年 ツシマヤマネコ飼育下繁殖計画」を発表しました。これは、飼育されているツシマヤマネコたちの未来をかけた、壮大な計画です。その核心となるのが、動物園や保護施設の間で個体を戦略的に移動させる、前代未聞の『引っ越し大作戦』。このプロジェクトには、東山動植物園（愛知）、よこはま動物園（神奈川）、福岡市動物園（福岡）、そして現地・対馬にある対馬野生生物保護センターの4つの施設が参加します。

誰がどこへ？緻密に計算された移動ルート

今回の計画では、まず東山動植物園で飼育されている個体が、よこはま動物園へと送られます。その一方で、東山動植物園は新たに福岡市動物園と対馬野生生物保護センターからそれぞれ個体を受け入れます。まるでパズルのピースを入れ替えるような複雑な移動ですが、これらはすべて無作為に行われるわけではありません。それぞれの個体の年齢、血統、健康状態などをすべて考慮し、科学的根拠に基づいて緻密に計算されたルートなのです。この4つの拠点が連携する全国規模の取り組みは、ツシマヤマネコ保護の歴史において大きな転換点と言えるでしょう。

しかし、なぜわざわざ個体を移動させる必要があるのでしょうか？その答えは、種の未来を左右する「遺伝子」に隠されています。

ただの移動じゃない！『遺伝子』をつなぐ壮大な狙い

絶滅を防ぐ鍵「遺伝的多様性」とは？

今回の『引っ越し』の最大の目的は、「遺伝的多様性」を維持・向上させることです。少し難しい言葉ですが、簡単に言えば「血が濃くなるのを防ぐ」ということです。個体数が少ない集団では、どうしても血縁の近い個体同士で繁殖せざるを得なくなります。このような近親交配が続くと、病気にかかりやすくなったり、繁殖能力が低下したりと、種全体が弱くなってしまうのです。異なる施設で飼育されている、遺伝的に離れた個体同士を計画的にペアリングさせることで、遺伝子のバリエーションを豊かにし、長期的で健康な個体群を維持することが可能になります。今回の移動は、未来のツシマヤマネコたちへの最高の贈り物なのです。

東山で生まれる新たなペア、よこはまが挑む先端技術

各施設には、明確な役割があります。繁殖実績が豊富な東山動植物園では、新たに受け入れた個体と既存の個体で新しい繁殖ペアを形成し、次世代の誕生を目指します。一方、よこはま動物園では、移動してきた個体を活用し、「人工授精」などの高度な繁殖技術の研究をさらに強化します。自然な繁殖が難しい場合でも、人工授精という先端技術を用いることで、貴重な遺伝子を次世代につなぐ可能性が広がるのです。このように、各園の強みを生かした役割分担によって、プロジェクト全体の成功確率を高めようとしています。

動物園や研究機関が総力を挙げて取り組む繁殖計画。しかし、その最終ゴールは動物園での繁殖成功ではありません。その先には、もっと壮大で、そして険しい目標が待っています。

ゴールは動物園じゃない。野生復帰への険しい道のり

飼育下繁殖の先にある「本当の目標」

このプロジェクトの最終目標、それは飼育下で生まれたツシマヤマネコを、彼らの故郷である対馬の森へ返す「野生復帰」です。動物園は、あくまで絶滅を回避するための一時的な避難場所（アーク：箱舟）にすぎません。種を本当に救ったと言うためには、彼らが再び自らの力で野生環境を生き抜き、子孫を残せるようにしなければならないのです。この野生復帰というゴールがあるからこそ、遺伝的多様性にこだわり、健康な個体を育てる必要があるのです。これは、ツシマヤマネコがかつてのように対馬の生態系の一員として暮らす未来を取り戻すための、希望のプロジェクトです。

立ちはだかる「野生の壁」という大きな課題

しかし、野生復帰への道は決して平坦ではありません。動物園で生まれ育った個体は、野生で生きる術を知りません。自分で獲物を狩る方法、カラスやテンといった天敵から身を守る方法、そして人間を適切に恐れること。これらはすべて、親から子へと受け継がれる「野生の知恵」です。野生復帰させる前には、こうした能力を身につけさせるための「順化訓練」が必要不可欠となります。対馬野生生物保護センターなどが中心となり、より自然に近い環境で訓練が行われますが、すべての個体が順応できるわけではありません。この「野生の壁」をどう乗り越えさせるかが、今後の大きな課題となります。

ツシマヤマネコの未来、鍵を握るのは？

絶滅寸前のツシマヤマネコを救うため、ついに始まった4園連携の国家プロジェクト。この壮大な『引っ越し』は、種の存続に不可欠な遺伝的多様性を確保するための、未来への投資です。鍵を握るのは、飼育下での繁殖を成功させ、その先に待つ「野生復帰」という高い壁を越えられるかにかかっています。科学の力と関係者の情熱が、この小さな命を未来へつなごうとしています。果たして、ツシマヤマネコが再び対馬の森を駆け巡る日は来るのでしょうか。私たちの関心と理解も、このプロジェクトを支える大きな力となるはずです。